【小説版】始まりの春 花と恋は舞咲う。【プロローグ】

本編

3月15日金曜日14時40分。

特急列車に揺られること約40分。新たな学生生活を送るため目的地である|花舞市《はなまいし》に降り立った。
改札を抜けて外に出ると春の柔らかな風が桜の花びらが風に乗って舞い踊る。
街全体が鮮やかな花々の香りに包まれていて、まるで観光客や移住者を歓迎しているように感じた。

「花舞市って本当に名前の通り花が多いんだな」

街路樹が桜の木ってだけでも軽く驚いたけど、道沿いの花壇にも色とりどりの花が咲き誇り、
公園では子供たちが元気に遊んでいる。また、街並みは整然としていて、どこか懐かしいような温かさを感じる。

しばらく街を歩きながら、季節の美しさに見とれていた。
春の陽射しが心地よく、頬に感じる風が新天地での生活で若干の不安を残す俺の心を軽くしてくれる。

「ここなら新しい生活も悪くないかもな。頑張れる気がする」

やがて、目的地である新しいアパートに到着した。大きなスーツケースを引きずりながらアパートの前に立つ。

「やっと着いた。ここが今日から俺の新しい家か…」

アパートの外観は真新しくて綺麗だ。
四階建ての建物で、エントランスには季節の花が飾られている。今日からこのアパートの三階の部屋が俺の家になるのか。

初めての一人暮らしに少しの不安と親からの解放感に胸が高鳴る。思わず笑みを零しながらもエントランスのドアを開けて、
エレベーターに乗って三階の自分の部屋に向かう。

エレベーターを降り、数日前に受け取った鍵でドアを開けて部屋の中に入ると、広々としたリビングが広がっていた。
大きな窓からは花舞市の街並みが一望できる。

「綺麗だ……これからここで俺の新しい生活が始まるんだ」

新天地の街並みに更に胸を躍らせる俺は荷物を一旦置き部屋を見回す。リビング、キッチン、そしてバスルーム。
どの部屋も綺麗でまだ誰の手も触れていないような新しさを感じる。

RRRRRRR……。

閑散としたリビングに鳴り響くスマホの着信音とは裏腹に胸の高鳴りは落ち着きを取り戻す。
現実に引き戻した電話の主は誰かとスマホ画面を見て、思わず顔を顰める。
母さんからだった。

少しためらった後、通話ボタンを押す。

「到着した?」

「うん、今部屋に入ったところだよ」

「そう、既に荷物は運び込まれてる筈だからちゃんと生活できるように整えるのよ。勉強も忘れずにするのよ?」
「帝王大学に進学するのが条件なんだから、しっかり頑張るのよ」

「わかってるって」

浮ついた心に釘を刺すような母の小言に若干不機嫌な声音を混じらせながら答えた。

通話を終えると嘆息気味に深呼吸をして窓から外を見下ろす。

花舞市の風景が新しい生活の始まりを静かに見守っているかのようだ。

「よし、新しい街、新しい生活…やるしかないな」

来月には入学式。アイリス学園での新しい生活が本格的に始まる。衣類や日用品を整理しながら、これからの生活に思いを馳せる。

アイリス学園での新しい出会い、友達との交流、そして自分自身の成長…期待と少しの不安が入り混じる中、
俺は一つ一つの作業を進めていった。

荷物整理があらかた終わる頃には、気づけばもう夕方になっていた。

「流石に疲れたし、ご飯はコンビニで済ませよう」

母さんにはできるだけ自炊するように言われてるけど、今日ぐらい許してくれる筈だ。

ボディバッグに財布とこの部屋の鍵を入れ、徒歩10分弱の距離にあるコンビニへと向かった。

さっきまで茜色だった筈の空は気が付けば既に大半が闇に覆われ、西の空が若干赤い程度の時間になっていた。

だけど田舎と違って街頭や街の灯りのせいか、暗さを感じさせない。

それに田舎と違ってまだ暖かい。季節感が鈍りそうな感じだ。

それから街並みを覚えるように歩きながらコンビニで夕食を購入して、自分の部屋……違うな。自分の家で食べた。
なんだかたまに食べるコンビニ弁当より若干だけど美味しかったな。

3月16日土曜日13時12分。

頭が半覚醒状態で時間を確認した。やべっ母さんに怒られる…!

あ、そうだった。昨日から1人ぐらしだった……。

眠気眼に容赦ない正午の陽射しが襲い掛かる。陽射しから逃げるようにベットから起き上がって洗面所に向かう。
田舎の実家で暮らしていた時は厳しい母さんの言いつけで休日でも早起きをさせられていた。

その反動からなのか、初めての一人ぐらしに舞い上がっていた俺は当然夜更かしをし、
春休みという事もあってさっきまで寝ていた。

……実家なら絶対に母さんに怒られていたな。
歯磨きと顔を洗って完全に目を覚ました俺は朝食……もとい、ちょっと遅めの昼食を昨日コンビニに行った時に買っていた
サンドイッチを食べる事にした。


食べ終わった後は残っていた荷物整理を1時間掛けて終わらせた。
ふぅ……あとはダンボールをゴミ捨て場に持っていくだけだな。

「このあとどうしようかな」

そう呟きながらスマホ画面に表示された時間を確認する
時刻は14時56分。
散策に行っても良いけど、近場だけで終わりそうだから明日にしようかな。
でも月曜日からバイトがあるから、散策は明日一日だけか……。

「行こう」

数分ほど悩んだ俺は結局行く事にした。
母さんにも自炊するよう言われてるからスーパーに行かないとだし、
食料品や日用品を買うついでに軽く散策するのも悪くないしね。

着替えてボディバックを肩から下げた俺はドアを閉めて施錠した。

3月18日月曜日9時40分。

生活費、もといお小遣いを稼ぐためバイト先に来ていた。
カラオケ店『オータムウェーブ』が俺が今日からバイトするお店の名前だ。
どうやら少人数客向けって感じの店舗のようで、午前中とは言え落ち着いた雰囲気が店の中に漂っている。


初日って事もあり、早めに来た俺はさっそく店長の|七草 芹《さえぐさ せり》さんに制服を渡されて更衣室で着替えていた。
芹さんは母さんの知り合いらしく、なんでも母さんが大学生の時にしていた家庭教師の生徒だったらしい。


ま、そんな母さんのツテで入ったバイト先でもあるから不真面目な事をしていたら母さんに連絡が行く。真面目に頑張ろう。

着替え終えた俺は事務室で10分ほど待っていると、芹さんがやって来た。

「着替え終わったわね…」
「…うん、似合うわね」

芹さんの若干釣り目の瞳が下から上へと視線を向けるとどこか満足気に呟いた。

「ど、どうも……」

漆のような黒い髪をハーフアップにした長髪、170弱の身長に目で見て分かる程度に膨らみのある胸、
曲線を描くように細い腰はまさに魅力的な大人の女性がそこに立っており、
そんな女性からお世辞でも似合っていると言われて思わず返事を詰まらせる。

「それじゃまずはタイムカードについて教えましょうか」

褒められ慣れていないと芹さんは思ったのか微笑を浮かべるとそのまま仕事の話をし始める。
ま、実際褒められ慣れてないけど……。

出勤時のタイムカードの仕方から始まり、挨拶のデモンストレーションを一通り教わった俺は椅子に座らされた。
さっそく何かやらかしたかな?


「次に|望蕾《みらい》君には講習ビデオを見てもらうわ。約1時間ぐらいだから。お茶でも飲みながら観ていて」
「分かりました」

そう言って芹さんは通常業務をするべく事務室を後にした。
それから俺はモニターに流れる講習映像を観ながら店員としての勉強をする事になった。

講習映像を観終わると時刻は11時を過ぎていた。
観終わった俺は芹さんの下へ向かった。

カウンター内で作業をしている芹さんを見つけた俺は声をかける。

「せ……店長観終わりました」
「分かったわ。ちょっと待ってて、今教育係の子を呼ぶから」
「分かりました」


てっきり芹さんが教えてくれるものと思ってたけど、そうだよな。普通に考えて教育係の人が別にいるよな。
ちょっと残念な気持ちになる俺を他所に芹さんがインカム越しに教育係の人と話していた。

「待ってて直ぐに来るから」
「分かりま――」
「店長、来ましたよ~」

返事を終える前にカウンターに一人の女性、と言うより美少女がやって来た。
腰近くまである桜色の髪、身長も160強程度でスポーツでもしてるのか全体的に引き締まった肉体美に対して
どこか物腰の柔らかそうな雰囲気がある。


そして何よりも、それらに反した無暗やたらと主張の激しい双丘が目の前にあった。すげぇ……

「望蕾君、彼女――|秋津 桃《あきつ もも》ちゃんが貴方の教育係よ」
「貴方が店長から聞いていた後輩君ね?よろしくね~。」
「|染前 望蕾《そめまえ みらい》です。よろしくお願いします」


危なかった。あまりの自己主張の強さに目を奪われていた俺は誤魔化すように自己紹介をした。

「それじゃ桃ちゃん、あとはお願いね」
「分かりました~。それじゃ後輩君、清掃の掃除の仕方を教えるから一緒に来て~」
「わ、分かりました」

「も~、そんなにカチカチになっちゃって。おねぇさんが優しくリードしてあげるからリラックスして。ね?」
「あはは……すみません、よろしくお願いします」

俺は秋津さんと一緒にさっきまでお客さ……お客様が居たであろう個室の掃除をするため向かった。

まずグラス類を片づけ、マイクやデンモクをウエットティッシュなどで拭いて元の位置に戻し、テーブルやソファーも拭いていく。
最後に床の掃除をし終えたら別の個室へと向かう。

これが一通りの流れらしい。

今日は二人でしたけど、基本別れて掃除するそうだ。
それにしても秋津さん凄いな。慣れているとは言え、凄いスピードで掃除をしてる。
たまにインカムから芹さんに呼ばれて別の仕事もしてるのに、俺よりも早いし丁寧だ。

清掃予定の部屋を全て終えた頃には2時間近くが経過していた。

「後輩君ホントに初めて?とっても上手よ~、おねぇさんビックリしちゃった」

どうやら俺はバイト初日にしてはしっかり働けていたようだ。お世辞だとしてもこんな美人に褒められるのは素直に嬉しい。

「ありがとうございます。掃除なんかは母によくやらされていたもので……その経験が活かせたようで良かったです」

とはいえ流石に疲れたな……体力には自信があったつもりだけど。

俺たちは一旦フロントへと戻る。

「店長清掃終わりました」
「分かったわ。ならお客様も少ないし二人とも休憩してきて良いわよ」
「分かりました~、休憩入りま~す」
「休憩行ってきます」

そう言って俺と秋津さんは事務室へ入った。
テーブルを挟む形で椅子に座るなり秋津さんが話しかけてくる。

「どう?思ったより大変でしょ?」
「はい、想像以上に大変でした。秋津さんはいつもアレを一人で?」

秋津さんの働きぶりに驚きつつも、自分もあのレベルを求められていると思うと大変だけど、
それと同時にヤル気も湧き上がっていた。

「ま、大抵一人だね~。暇な時は他の人と一緒にしたりするけど。あと私の事は桃で良いよ~」
「分かりました。桃さん」

物腰の柔らかいイメージだったけど、まさか下の名前で呼んで良いなんて。ラッキーだ。
小さな幸せを心の中で喜んだ。

「あ、それよりも最初に会った時、私の胸見てたでしょ?」
「え!?いや、別に……」

唐突な言葉に喜びなんて吹っ飛び、痛いぐらいに鼓動が早くなる。
だけど平然を装うがそれもどこかもどかしい返事になってしまい、直ぐにバレてしまった。

「別に気にしてないよ~。いつもの事だしね。でも女性って男性の視線には敏感だから気を付けてね~」
「は、はい。気を付けます……」

俺はそれ以上に返す言葉も無いまま、ただ俯いて誤魔化す事しか出来なかった。

「あ、やっぱり見てたんだ~。後輩君のエッチィ~」
小悪魔な笑みを浮かべる桃さんに揶揄われていると気づいたのは、俯かせた顔を上げて数秒の事だった。

「勘弁してください……」
「フフッ、ごめんね~。後輩君の反応が可愛くてぇ~つい♪」
「でもこれからはお店だけじゃなくて、”学園生活も”楽しくなるね~」

そう言って微笑を浮かべる桃さんの表情で俺は言葉の意味を理解する。

どうやら俺の学園生活は更に揶揄われる事が増えるだろうな。と。

4月9日火曜日20時20分。


バイトを終えた俺はアパートに戻って来た。
夕食は外食で済ませたから後は寛ぐだけ。
なんたって明日は入学式。今日ぐらい外食で済ませてもバチは当たらない筈だ。

それにしても毎日桃さんに揶揄われるバイト生活になると思いきや、そんな事は無く、
どうやら桃さんは掛け持ちでバイトをしているらしい。
だから出勤時間はほぼ一緒だけど会わない時は会わない。そんな感じで過ごしていた。

一緒の時でも揶揄ってくるような事は殆どなかった。
他愛もない雑談や学園生活について色々と教えてくれる程度で、俺はホッとした。
それにしても桃さんのあの働きぶりは異常と言えるレベルだと思う。

そこらの清掃員よりも早く丁寧な清掃に、お客様の対応、料理作りに配膳を全て一人でそれも短時間で熟すんだからな。

それでいて他のお店でもバイトしてるってスタミナお化けを通り越してもはや超人だと思う。
なんでそこまでバイトをしなければいけないのか分からないけどきっと苦学生なんだろうな。
そう結論付けた俺はシャワーを浴びてからベッドに横たわった。

もう見慣れた部屋の天井を見上げながら、これからの学園生活に期待を膨らませる。
新しい友達、新しい学び、新しい経験。すべてが俺を待っている。

「楽しみだ……」

若干の不安をかき消すためそう自分に言い聞かせながら、俺は目を閉じた。

徐々に訪れる眠気に身を任せ、新たな生活の始まりを夢見ながら静かに眠りに落ちていった。


~「プロローグ」終わり。~

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